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上野彰義隊墓所墓守代々の記
途中版  本稿の元原稿を出版する手はずを整えつつあります。つきましては本稿を近く閉じる予定です。
途中まででしたが、ご愛読、ありがとうございました。

 このページは、筆者の小川潔が本として出版する予定の「墓守の伝承(仮称)―上野彰義隊墓所の人々」のダイジェスト版です。著作権は小川潔にあり、転載、コピーはお断りします。このページは上野彰義隊墓所の墓守をした人々とその時代を紹介し、次代に伝える目的で構成しています。内容についてのご助言、リクエスト等は歓迎します。
構成予定を多少変更しています。

上野彰義隊墓所墓守代々の記

旧上野彰義隊墓所事務局 小川 潔

 

 本稿は筆者が執筆中の「墓守の伝承(仮称)」のダイジェスト版を公開するものです。著作権は小川潔にありますので、無断転載・コピーはお断りします。なお、歴史的事実に関しては異説があるものもあり、ここに書いてあることが確定した唯一の定説であるとは限りませんので、そのつもりで読み進めてください。個々の根拠になる文献・資料・伝聞等については「墓守の伝承(仮称)」のなかで明記していますので、すぐに知りたい方は手紙で問い合わせてください。


 話の順序を読みやすく替えました。

1.幕末の時代背景と彰義隊・上野戦争
 

はじめに、彰義隊が結成された時代背景を少し振り返ってみよう。13代将軍徳川家宣と14代将軍家茂の時代、開国に反対して攘夷を支持した孝明天皇による慶喜重用もあって、尊王・幕府協調路線の模索があった。また薩摩より篤姫が家宣に嫁ぎ、孝明天皇の妹和宮の家茂への降嫁と、薩摩藩も含めて公武合体の動きがあった。

家茂は若く病弱だったため、家茂の後見職をしていた慶喜は開国路線を朝廷に迫ったが、孝明天皇の了承はなかなか得られなかった。長州藩が攘夷実行を唱えて京に出兵した元治元年(1864年)禁門の変に伴う第一次長州戦争を経て、武装恭順路線に転換した長州藩を討つため慶喜は慶応2年(1866年)に第二次長州戦争に突入した。ところが1か月余後、大阪城で家茂が急死したため長州出兵は中止され、慶応2年(1866年)125日、徳川慶喜は徳川宗家を継いで15代将軍となった。しかし慶喜びいきの孝明天皇が慶応2年(1866年)1225日に逝去し、三条実美ら尊王攘夷派公家が復権し、薩長と連携した。慶喜は慶応31014日、大政奉還をして武力衝突を避け、朝廷に国政をゆだねた。しかし、尊王派公家の多数派工作と薩長連携により、慶応3年(1867年)129日、朝議の結果、王政復古の大号令が15歳の明治天皇から発せられた。

慶応4年(1868年)正月3~6日、薩長軍が慶喜軍を鳥羽伏見の戦いで破ると、慶喜追討の大号令が17日に発布され、慶喜は朝敵となった。鳥羽伏見の武力衝突に敗れた慶喜は大坂から112日に江戸へ逃げ帰ったが、新政府は既に10日に慶喜の官位剥奪・領地没収を決定していた。新政府の組織確定、諸外国の局外中立宣言、慶喜による幕府中枢組織の解体を経て、212日、慶喜は寛永寺大慈院に蟄居した。慶喜自身も、水戸家出身で尊皇派であった。しかし、新政府内では、慶喜を朝敵とし死罪にすべきだという意見が高まった。

   

       *徳川慶喜    *山岡鉄太郎   *勝安房    *西郷隆盛

時間を少し戻すと、京都における政情不安に対処するため、禁門の変の前年の文久3年(1863年)正月に徳川幕府自らが浪士集めに奔走したことがあった。それを示す史料である指示書の写しが上野の彰義隊墓所に残っていた。浪士集めの指示書は3通あり、一通目は浪士集めの組織について記載され、二通目は松平主税之助(ちからのすけ)と鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)あてで事務局所在地が示され、三通目は山岡鉄太郎(鉄舟)から池田徳太郎あての具体的指示書である。三通目曰く、「今般非常の御時、盡忠報国の志を元とし公正無二身体強健気力荘厳の者を貴賎老少にかかわらず召し分に応じ御取り立て・・・」 

           山岡鉄太郎から池田徳太郎への浪士集め指示書

 

それらは緊急の情勢に当たって、全国から志ある勇壮な者を集めよというもので、土佐における非正規軍農民兵組織づくりに似て、幕府自身が京都警護のため、徳川家臣団で正規軍である旗本・御家人や藩兵ではなく、浪士を集めて軍備増強を図る内容だった。ここで集められた浪士たちが御所警護のため京都に上った。京都の御所守護はもともと、代々の征夷大将軍の任務であった。当時、京都では攘夷の実行をめぐって朝廷および警護の幕府勢力と長州藩との緊張関係にあり、病床の14代将軍家茂の代理として一橋藩主徳川慶喜がしばしば訪れて治安の指揮に当たっていた。御三卿の一つであった一橋家は兵力をほとんど持たず、京都の守護には譜代大名の藩兵が駆り出されていた。なお、御三卿である一橋家、田安家、清水家は石高10万石であるがまとまった領地を持たず、徳川家の領地を飛び地的に各地に与えられていた。これらの地では年貢徴収などはそれぞれの地方の代官のような役人や幕府が代行していた。それで御三卿の藩士はごくわずかしかいなかった。京都の守護をめぐっては、慶喜とともに会津藩主松平容保(かたもり)が一身を尽くしていたが、江戸の幕府首脳や旗本・御家人との温度差が大きく彼らの支持を十分得られず、慶喜は自らの兵力を増強して備える必要に迫られていた。

浪士集めの具体的活動は清河八郎が務めた。彼は尊王攘夷派で、浪士組を従えて御所へ度々攘夷実行を迫ろうとした。折しも生麦事件による対英国の戦闘に備えるために、浪士隊は早々に江戸へ引き上げとなり、313日に京を発った。清河は浪士隊を攘夷運動に結集させようとしたが、これが発覚し幕閣の命により413日、江戸で暗殺された。この時、京にとどまった人たちが新撰組を結成した。山岡や勝安房(海舟)は幕府再建のため登用されたが、彼らも尊王派であり、山岡は清河の首を取り返して葬った。

「戊辰物語」によれば、浪士隊公募の下工作は清川が奔走し、松平春嶽の命で江戸の剣道家松平主税介が担当者となった。実務は石坂周蔵と池田徳太郎が当たった。しかし途中で主税介は、浪士たち荒くれ者相手と財政問題の多難さから辞職してしまった。そこで幕府は浪士集めの担当者を鵜殿鳩翁に、実務を山岡鉄太郎と松岡万(よろず)に命じたとの記述がある。

こうした書類(写し、副本)が上野の彰義隊墓所に残っていたのは、後述する勝安房への木城花野の訴状が勝の手で彰義隊墓所に届けられたのと同様、のちに記すような山岡鉄太郎と上野の彰義隊墓所を造り墓守として余生を捧げた小川興郷との付き合いの深さを通して、墓所が情報を集め保管するセンターとしての役割も持っていったのだろう。

 話を彰義隊に移すと、慶喜の身が危ういということで、慶喜が一橋藩主時代の側近らにより、慶喜の助命嘆願の動きが慶応4年(1868年)211日に始まった。これが彰義隊の前身である。その日、本多敏三郎、伴門五郎による回状が関係者に回され、翌12日に雑司ケ谷の茗荷屋に集合したが17名しか集まらず決議できず、17日に四谷鮫ケ橋入横町圓應寺で再会、30名余が参集した。21日には天野八郎、澁澤誠一郎ら67名が結集し、血誓帖が作成された。23日には浅草本願寺にて130名余で尊王恭順有志会の隊名を協議し、彰義隊と決定、頭取:澁澤、同副:天野、幹事:本多敏三郎・伴門五郎・須永於莵之輔とする幹部人事も決められた。

 一方、徳川藩首脳らは、東叡山寛永寺筆頭執事役の覚王院義観に寛永寺山主の輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)による慶喜助命への助力を請願、輪王寺宮は219日に義観らを伴として上京のため江戸を発ち、37日に駿府で京都から進軍してきた新政府軍東征大総督府(大総督有栖川宮熾仁親王)と折衝を試みた。しかし面会は不調に終わり、輪王寺宮と義観はむなしく江戸にもどった。この時の大総督府による輪王寺宮への仕打ちが、覚王院義観を主戦論に傾かせたとの解釈もあり、また輪王寺宮が江戸市民から慕われていたことを示す瓦版も残存するという。320日には、慶喜助命嘆願のための静寛院宮(和宮)と天璋院(篤姫)の使者も大総督府から追い返されてしまった。実はこの間の36日、山岡と大総督府との交渉が行われていた。また、大総督府は元旗本の野見鍉次郎に慶喜の謹慎が本物かどうかの見聞を命じた。328日、上野寛永寺に来た野見に対して、警戒する精鋭隊士や彰義隊士との一触即発の危機を避けるため、精鋭隊長中條金之助らの計らいも得て、山岡や高橋泥舟は野見を小石川鷹匠町にある高橋邸まで護衛して慶喜の真意を伝えた

山岡との下交渉をもとに、313日、14日、西郷隆盛と勝安房との会談で4月の江戸城攻めは延期となり、411日、江戸城は無血開城となった。一方、44日、彰義隊は慶喜護衛を名目に上野へ移動し寛永寺に入った。やがて、慶喜に直接かかわった人たちのほかに、多くの人々が彰義隊に加入し、上野の寛永寺を本拠に新政府に反対する武装集団に成長していった。その後、江戸城にあって新政府の代行役を担当した徳川藩幹部は、悪化した江戸の治安を安定させるため、彰義隊の軍事力を登用した。これが徳川藩による彰義隊公認となった。しかし江戸の各地で、彰義隊士と新政府軍各藩の兵士たちとの小競り合いが続いた。

慶喜は411日に上野を発って出身家である水戸徳川家に移ったが、このとき側近の山岡ら精鋭隊を護衛に付けたものの、新政府をはばかって彰義隊の随行を認めなかった。初め慶喜の警護のためとして上野の山に集まった彰義隊は当初の名目を失い、その後、輪王寺宮の警護、徳川家の宝器の警護を理由に上野にたてこもった。この間、寛永寺では、覚王院義観が新政府軍との主戦論を主張して彰義隊を受け入れていた。一方、山岡は勝の意を受けて寛永寺に赴き、覚王院義観に彰義隊など諸隊の解散を促したが義観には聞き入れられなかった。閏429日、新政府は徳川処分として、徳川を中心とした連合政権を否定し、同時に慶喜の隠居、田安亀之助に徳川宗家16代を継がせる決定をして、新政府側についた一部の徳川一族との対決を避け、内戦回避を選択した(後日、70万石に減封した禄高を通達した)。

一方、江戸以北の各藩は、新政府の意向に従わず、後に奥州列藩同盟を結成した。こうした情勢をにらんで、新政府の中枢を急遽担った長州藩士の参謀大村益次郎は慶應4年(1868年)515日に、上野総攻撃を仕掛けた。

上野戦争時、彰義隊は2千人とも3千人ともいわれているが、実態はよくわからない。当初の一橋藩関係者や主君(徳川家)への尽忠を果たそうとした人だけでなく、江戸の警備を担当して手当てが出るようになると、「艶(いろ)に持つなら彰義隊」と言われたように、吉原通いで派手な金の使い方をする者もあったようだ。また、動乱期に一旗揚げようという人、新政府と徳川方の力関係が定まらないので、家族親戚が双方に分かれて参加し、どちらが勝っても家を断絶させまいとした武士たち、新政府への反感から参加した人など多彩な顔ぶれがあった。さらに、戦争が必至となった時点で各藩を脱藩して参加した人々があった。武士階級以外の者も参加したようだ。先祖は農民出身で彰義隊に参加したという遺族が平成の時代になってからも現れている。ただ、士農工商という強固に区分された身分制度が近世封建時代の特徴だと教え込まれてきた既成概念は明治時代以降につくられたもので、武士とか農民という区分はそれほど厳格ではなく、農民も武器を持っていたし、剣術の腕を磨いた者も少なくなく、一代限りで武士になることや武家に養子に入ることもよくあった。また、この時代には郷士と呼ばれる田畠は持つが主君を持たない武術に長けた人たちもいた。

彰義隊は当初、澁澤成一郎に頭を依頼したが、天野八郎との確執から脱退、のちに小田井蔵太、池田大隅守が頭にすわり、25人単位に組頭、副長、伍長を置き、2組単位に頭を置いた。このほか、会計などの諸掛を設けた。組頭には第一番隊から第十八番隊までの担当者がいた。戦争当日は、脱藩した藩ごとの隊も存在した。たとえば、高田藩脱藩者は藩主榊原家にちなみ、榊の文字を分解して神木隊といった。また、八王子千人同心離脱有志は臥竜隊に合流して御霊屋および御穏殿坂警備に参加した。

彰義隊は上野の各山門を内から固め、新政府軍は各門を各藩に割り当てて外から封鎖し、彰義隊への援兵が入れないようにして上野の山を陸上封鎖した。本郷台からは砲撃し、途中、不忍池を渡って攻めた。薩摩藩兵など主力部隊が正面に当たる黒門口に集中、その前線で新政府軍の陣頭指揮をしたのが西郷隆盛であった。彰義隊は門の前に畳を重ねて建て、防弾の盾にし、敵の銃撃が止むと抜刀して出撃し、すぐ引くという戦術をとった。また、山王社の高台から新政府軍に砲撃した。一方、新政府軍は広小路にある雁鍋の2階から山王台の彰義隊砲兵を狙撃、谷中口では、三崎坂から団子坂あたりでも、攻防戦が繰り広げられた。

上野の山で防戦した中心が、副隊長に当たる頭並の天野八郎だった。天野はもともとの幕臣ではなく、上野国甘楽郡磐戸村の名主大井田家の出身だった。彼は各門の警備を馬で巡回し、手薄な箇所を応援し、ピストルを駆使した。彰義隊の大久保紀伊守が東照宮の旗を掲げて打って出ようとして砲撃され倒れたとき、ほとんどの彰義隊士が逃げてしまったのを見たり、山王台が砲撃された時、山王台に駆けつけて振り返ると後ろに続くはずの隊士が一人もいないのを見て、旗本・御家人のふがいなさに歯ぎしりしたという。

なお、隊士阿部杖策は明治3年(1870年)、上野戦争の状況を「上野戦争實記」と題して書き残した。以下、内容を意訳して紹介しておく。

『慶喜公の朝敵という汚名を雪ぐため同盟哀訴の集まりの人数がふくらみ、隊名に彰義を衆議一決し、慶喜公の恭順擁護のため上野東叡山に屯営した。隊士が1000人余りになったので、第一から第十八までの分隊と遊撃隊を組み、それ以外に諸藩脱藩者や直参の士で十三隊を合わせ、2000人余になった。東征の諸藩は朝旨として彰義隊の解散を促したが、一度目は主家の安危を確かめるまでは応じられない、次には宗家の霊廟を離れるに忍びない、三度目には主家の宝器保護を理由に退去に応じなかった。411日に慶喜公が水戸に移られてからは、徳川家の存亡を案じて心を砕いてこられた法親王を頼りとしようとしているうち、514日に、明日、諸藩兵が彰義隊を包囲攻撃するとの報が入った。もはや望みもなくなった、いざ武門に生まれた思い出に花々しく戦って潔く本分を果たそうということで、戦闘準備に入った。

市民から畳1畳ずつを持ち寄らせ盾とし、要所に砲を備え、市民に避難を勧告した。15日早朝より、諸藩の兵が押し寄せてきた。彰義隊士の中には、帰宅していて戻らぬ者や途中で遮られた者、あるいは給金目当てに参加し昨夜のうちに脱出した者もあり、上野の山に残ったのは1000人ばかりとなっていた。

まず東叡山の南門に向け広小路を、鹿児島・熊本の兵が攻め寄せ戦端を開いた。彰義隊は萬字隊と合わせてこれを防いだ。神木隊は二番手を兼ねて文殊楼の前に備え、浩氣隊は穴稲荷に備えた。南門は東叡山の喉元なので、守りも固く砲撃戦に応じた。鳥取の兵が、彰義隊が潜んでいると聞いて湯島に火を放ち、不忍池の南から攻撃したが地の利を得ず、広小路に出て鹿児島などの兵に合流した。彰義隊は山王台の砲で応戦し、敵を防ぐとともに、広小路の南に砲が当たって2カ所で火が出た。

山王台の端に匍匐して広小路方面に狙撃をしていると、水戸、富山、高田の藩邸から多数の爆裂弾が飛んできて、樹木を裂き石塔を砕き、隊士・人夫に死者が出た。午後になって、彰義隊は不利になっていった。敵弾に砲手が倒れ、自分が力添えをして、味方の鋭気を削がないよう絶えず応射したが、次第に弾丸が底をついて行った。仲間は次々倒れ、援軍もなく、敵勢は数を増していった。外にいた隊士たちも黒門内に退却し、萬字隊が必死で防戦した。新黒門にいた歩兵隊、大砲隊、旭隊も防ぎきれなくなって本坊の方へ退却、神木隊は大砲を駆使し、浩氣隊も一斉援軍をしたが、そのかいなく彰義隊は山中に孤立していった。自分も新黒門口の崖を這い上がろうとする鹿児島、熊本、鳥取の藩兵を斬って防いだが、味方の人数が百人ばかりになって防御できなくなったので、山上の隊士に合流し、二人の隊士に、法親王を護衛して急ぎ落ちるよう指示した。

残った隊士とともに射撃応戦したが弾丸が尽きていった。この時、水戸・富山の藩邸からの砲丸が文殊楼に当たり、火の手が上がった。南、東、西から討ち入った敵兵はここかしこに火を放ったので、手負いの隊士は進退極まって、火の中へ飛び込んだり、互いに刺し違えて、生残者はわずかになった。自分も敵の中へ突入して切り死にしようかと思ったが、法親王の安否を見届けるまでは犬死してはいけないと、御穏殿へ馳せ参じたところ、法親王は既にいずこともなくご退去されていた。あたりに人影が少ないあの辺りであろうと目指す方向に跡を追い、根岸村を出て三河島村に至ると、天野八郎ら残隊と出会った。あちらこちらと見回すと、果たして法親王がいらっしゃった。黒い法衣をまとい、草履を履き、僧に助けられたいたわしいお姿に、涙ばかりで言葉もかけられないまま、地面にひれ伏して秘かに行方を尋ねると、僧が会津と答えた。お供を願ったが許されず、見送って振り返ると、中堂の辺りそこかしこに煙が上がり、砲声の音もやまず、散り散りに音羽の護国寺を目指した。

清浄無垢の霊場は穢土と化し、堂塔は一瞬の火に失われた。修羅の巷は目も当てられない。この戦に兵火をこうむった市民は少なくなかったが、怨みを叫ぶ者はなく、彰義隊の戦死者を哀悼すること親族のようであった。彰義隊の一味がこれほど慕われるのは、幕府の深い恩沢が市民の心に浸み渡り、義に命をささげた人々と感情を共にしているからだろう。』

彰義隊を武力で壊滅させ、東征軍(新政府軍)の威信を見せつけるねらいは的中した。先に示した阿部杖策が書き遺した「上野戦争實記」からは、銃弾量の差が応戦時間を限っていたことが読み取れる。なお、寛永寺の大伽藍を灰燼に帰させたのは、彰義隊敗走後に新政府軍が火を放ったためという。新政府軍傘下の主要藩兵は、彰義隊敗走後は主君の藩主ゆかりの寛永寺子院を守るのに奔走した。

敗色濃くなった時分、輪王寺宮は衣服をかえて覚王院義観らと上野を逃れ、三河島あたりへ出た。これを聞きつけて天野八郎らが後を追い、最初で最後の直接対面をした。上野戦争では大村の作戦で、東北方面への門を一つだけ包囲せず、逃げ口としてあけておいた。そのため、彰義隊は徹底抗戦で全滅ではなく、ここから各方面へ敗走した。逃れた天野八郎らは、その日は護国寺に入り、その後は江戸市中に隠れていた。輪王寺宮が会津に着いたという報を得て再起をはかろうとしたところで逮捕された。生き残った隊士の一部は海路蝦夷地に渡り、五稜郭にこもり函館戦争を戦った。

 

*天野八郎      *輪王寺宮の東叡山落ち 天野との別れ

 

2.彰義隊の墓をめぐって

上野戦争直後の慶応4年(1868年)5月の江城日誌には、東征軍傘下の各藩の死者負傷者の数が詳細に書かれているが、彰義隊士の記事はない。各藩の遺体はすぐに引き取られたが、彰義隊士の遺体は見せしめのために放置されたといわれる。このとき、隊士木城安太郎の妻花野が上野を訪れて慨嘆に耐えず、勝安房宅に置いてきた手紙が、後に勝の手で彰義隊墓所に届けられ残っていた。

花野の手紙に関する彰義隊戦史の記述によると、彰義隊の戦死の有様は、戦争の意味はないのに大軍で彰義隊を取り囲み、火中で必死を極めた者たち、其の忠心・義心は言葉に尽くせない。聞くところでは京では楠正成の再評価が起こっているとか。正成は南朝方なのに北朝方の現朝廷がこのように動いているのだから、彰義隊士ばかりが冷遇されるのはおかしい。勝安房には、主君がなくなったとはいえ、早く隊士の遺体を埋めて霊を慰めるため尽力してほしい。義士の死骸をさらすのは、その面目は徳川家の誉でもある。しかし一度は人心を喜ばしても、次には痛ましくさせる。雨露に晒し日に乾かして泥土に放置するのは、天下の恨みである。何とかしてほしい。官軍への言い訳は楠の例がある。婦人の長文もこの時世にはよいだろう。それともなお罪というなら死罪になってもよい。

      木城花野から勝安房あての手紙

これに対して勝は、次のように記している。誰の文ともわからないが、女の身で雄々しく論じ、内容もしっかりしている。このような心の隊士が一人二人上野に籠城していたならば、こんな事態にはならなかっただろうに。自分の行為が事ごとに稚拙で女子にも論じられるのは恥ずかしいことだが、後になれば思い知る人も出てこよう。今はどうしてよいものか。

 箕輪圓通寺の住職仏磨が見るに見かねて、新政府に談判して許可を得て、彰義隊士の遺体を山王社脇の穴に集め、火葬にした(注:圓通寺の伝承では、仏磨は戦争の翌日、上野の山を歩いているところを怪しまれ逮捕された。ちょうど大村益次郎は彰義隊の遺体処理に悩んでいたので、上野戦争の3日後に仏磨が僧であるのでその任を命じたという)。この時新政府は上野凌雲院へも死体の取り片付けを命じたという話もあるが、当時寛永寺関係者は上野への立ち入りを禁じられていたので、これは物理的に不可能との見方もある。仏磨は三河屋幸三郎らと力を合わせ、266の遺体を収容した。仏磨は隊士の骨を圓通寺に運び埋葬し墓を建てた。梅雨のさ中、大穴に入れた遺体の火葬は十分にはできず、圓通寺に運んだ遺骨の他は大穴に埋めたと伝えられる。

  圓通寺の戦死の墓

 

 彰義隊戦史によると、明治2年(1869年)春、上野寛永寺の子院である護國院の清水谷慶順と寒松院の多田孝泉は、匿名で彰義隊士埋葬地である旧山王社脇に小墓碑を置いた。小墓碑の表面には、慶應戊辰五月十五日 彰義隊戦死の墓の文字の他、発起回向主として両寺院の文字を一字ずつとって松國が刻まれている。裏面には次の漢詩と和歌が刻まれている。

 昔時布金地 今日草茫々 誰笑千年後 却憐古戦場

  あはれとて 尋ぬる人のなきたまの

        あとをし忍ぶの岡の邊の塚

この小墓碑はその後、仏磨の手で圓通寺に移されたが、三河屋幸三郎が取り返して剣客榊原健吉のもとへ持ち帰った。榊原は自身の剣道場に墓碑を置いたが、賊軍となった彰義隊の墓碑であるため、公にできなかった。そこで元官軍に加わった野見鍉次郎ならとがめはないだろうと野見の名前で三回忌法要を行った。これにも、寄附者の中には匿名が多かった。仲介に入った野見鍉次郎(安平)の取り持ちで、小墓碑は上野に置くことで一件落着となった。この折、手打ちとして三名の意を表すために野見の名前である「安平」と三河屋の「三幸」それに「大導師佛磨」の文字が新たに小墓碑に刻まれた。この小墓碑は、旧山王社脇に彰義隊の墓を建設する工事中に再発見されたという。なお、その後もこの小墓碑は動かされる恐れがあったので、今では上野の彰義隊墓石(大墓石)の前にコンクリートづけになっている。

石垣安造氏によると、榊原健吉は道場内で供養を怠らなかったが、官軍を恐れておおっぴらにできぬまま3年目を迎え、高弟の野見鍉次郎と相談し、野見が元官軍兵糧取り締まり役だったので野見の名前で三回忌法会を営んだ。そのときつくったのが現在上野にある小墓石であるとして、梵字を書いた僧名、彫刻者名を記し、さらに墓石に「発願回向主の松國」に加えて「佛磨」「三幸」「安平」の名前を入れたことを紹介している。

 上野の彰義隊墓所に現存する小墓石には「三幸」・「安平」の下に「再」らしい文字がかろうじて読めるが、そのあとに「建」があったのだろう。また、「大導師佛磨」の「磨」の文字が消えかけている。これらの文字はほかの文字に比べて彫が浅く小さい。

 

  

         小墓碑     小墓碑裏面        大墓碑

 後の時代、東京都は圓通寺の墓を史跡に指定した。その背景には、遺骨は圓通寺に運んだので、上野の彰義隊の墓には骨がなく、あれは墓ではなく碑だという主張があったらしい。しかし彰義隊戦史で山崎有信は既に明治時代にこの推測に疑問を持ち、山王台で隊士の火葬に立ち働いた者を取材し、火葬できた遺体は一部で、残りは現地の穴に埋めたとの証言を記録している。また、圓通寺と山王台の2カ所で並行して追善供養が行われていたことも、上野に骨が埋まっている根拠との考えを書き残している。三河屋幸三郎が「松國」の小墓石を圓通寺からとり返して上野に戻したのも、この事実を経験していたからであろう。


3.上野戦争後の彰義隊士たち

 上野戦争のあと、生き残った彰義隊士は地方へ逃げのびた者、再起を図ったが捕らえられた者、榎本釜次郎率いる旧幕府海軍軍艦に乗って蝦夷地に渡り函館戦争を戦った者などがある。その中で赦免になって旧主徳川宗家を頼った人たちの戦後を紹介したい。

新政府は藩の配置換えに続き明治26月に版籍奉還、明治47月に廃藩置県と矢継ぎ早に制度改変を行っていった。また、参勤交代の廃止によって東京にあった各藩の江戸屋敷も空き家になった。徳川藩は70万石に減封され、駿河・浜松へ配置換えとなった。旗本・御家人はほとんど無禄の静岡行き、東京に残って自活(主として官吏や商人化)、縁故や領地を頼って全国に分散の選択を強いられた。大多数の旧幕臣は静岡行きを選んだ。家臣たちの俸給は、江戸時代に比べ、桁違いの小額になり、高い身分程カット率は大きかった。明治2年(1869年)223日、赦免されて小伝馬町の牢屋敷を出た後、元彰義隊々士はやはり徳川宗家を頼って静岡に移った。

賊軍となった彰義隊士は他の徳川家臣に比べ冷遇されたので、元隊士たちは沼津に集結した。安定した生活の面倒を見るよう宗家に要請するためだった。この時の要請書(建白書)が「志願之表」、その連判状(盟約)を「集會仁銘士簿」といい、彰義隊結成の大義名分を訴えたものである。この時の集団を十八番隊と呼んだ。六分の一ほどに減封された徳川家に、新たな家臣を養う余力はなかった。「志願之表」には、自分たち彰義隊士は天下のために命を懸けて戦ったのに、徳川藩の幹部たちは日和見で、ぬくぬくと禄を食んでいると、駿河徳川藩の役人たちを痛烈に批判した部分が含まれていた。

  

 集會仁銘士簿 表紙と冒頭部分

 

 また「集會仁銘士簿」には大義名分とともに、自分たちが守るべき規律が「律令」という名前で書きこまれている。律令の部分の釈文は以下の通り。

   律 令

一 正義を重シ仁心一和粗暴

過激之處為無之様致度事

一 郡村止宿之輩農商に對し

私論を以て迷惑筋し相掛け

士道不闕様致し度事

一 衆論一決所長相定メ置候

  上は百事御相談見込相

  貫き候迄總て他言致間敷事

右之條衆論假概則達背有之

間敷候事

  巳七月

「集會仁銘士簿」の末尾には、参加者の署名と花押が記されている。

 

十八番隊の筆頭者(世話役のナンバー1)が元彰義隊第九番隊長の大谷内龍五郎で、ナンバー2が小川興郷である。戸羽山(1966)によると、龍五郎は古河の城代家老の子として生まれ、旗本大谷内家の養子となった。

彰義隊戦史によると、彼が代表となって41名が徳川家と禄支給の交渉をするため沼津へ着くと、沼津勤番(大目附)白戸砂(彰義隊戦史には白戸石介とあるが、村上篤郎から興郷への書簡では白戸砂、山田政一も白戸砂を採用、明治2年はじめの駿河徳川藩役職者名簿には白戸石介、同年役職改名時の名簿には白戸砂と記載、明治2年に改名したことがわかる)が通行を拒否した。その理由は隊士の中に徳川家に通じるものが出たためである。こんな信頼できない集団とは交渉できないと。現代風にたとえれば、労使交渉の陰で組合を裏切ってスト破りをするようなものだったのだろう。山田政一によると、2名の隊士が盟約を破ってこっそり駿河藩に仕官願いの書類を出したという。白戸は、集団を解散すれば建白書は必ずその筋に届けると言うのである。大谷内らはこの話を受け入れ、いったん集団を解散することにした。しかしいくら待っても駿河藩からの返事がない。彰義隊戦史によると、大谷内は2名の離反者、齋藤金左衛門と上野岩太郎の粛清を決意し、上野戦争による手のけがが癒えない自分に代わって吉澤力松、藤田寛三にその役を託した。刺客らは2名を討ち、首を沼津勤番組長の勤藤太平の屋敷に置いた。山田政一によると役所の頭である白戸砂の玄関という。これで大騒ぎになったが、後日、建白書の趣旨は受け入れられ、元のように禄米の支給が実現した。山田政一はこれを現在の恩給に当たると述べている。隊士らは沼津勤番という肩書だった。小川椙太はとりまとめの副担当者であった。しかし録はわずかで、多くの隊士は内職などをせねばならなかった。

 粛清の前後、沼津にいた彰義隊士は不穏の分子という見方が広まっていた。大谷内から小川・斎藤・百井宛ての明治3224日付の手紙によると、山岡鉄太郎が大谷内宅を急に訪れ、山岡はその日のうちに東京へ立つが、彰義隊士は君命に背くのかどうか、また牧の原開墾に参加するのか、この場で即答せよと言う。もとより逆らう気はないが、同士と相談せねば返事ができないと大谷内が言うと、山岡は今決断してほしい、そうすれば要請の件は一命をかけて請け負うからと言う。また、今を逃しては機会がないと言う。それは、隊士たちが生活に困窮し、また牧の原開墾と言っても負傷が癒えずに働けない者もいるのだが、開墾に当たっては直接労働をしなくてもすむよう開墾方附属という身分にして、彼らを救うことを一命にかけて山岡が請け負うという事だった。緊急にという山岡の要請に、大谷内はこれを受け入れた。これにより、山岡の約束通り、牧野原開墾を条件に元彰義隊々士にも安定した禄が支給されることになった。この時、勝安房や山岡鉄太郎の提言に従って牧野原開墾の中心となったのが新番組で、もと上野寛永寺に蟄居した徳川慶喜の警護役を任じた精鋭隊が慶應4929日に改称したもので、その代表者が中條潜蔵(金之助景昭)であった。中條潜藏ら元精鋭隊士たちは藩に申し入れ、金谷開墾(後に牧野原開墾と改称)に着手していた。これに彰義隊士たちが加わった形である。中條は、上野寛永寺駐屯以来の彰義隊士との縁が切れなかった。言い伝えによれば、彰義隊士の扱いには、陰ながら徳川慶喜の支援もあったという。なお、明治27月に金谷原開墾が許可され、新番組は開墾方に改組され、3年に大谷内ら彰義隊85戸が加入した。

これを見届けた後、金谷開墾方の中條潜藏の仲介で、粛清事件は龍五郎一人の責任として収拾することになった。齋藤、上野の遺族から駿河藩に仇討許可申請が出ていたが、政府は仇討禁止令を出していて、駿河藩は許可しなかった。明治3年(1870年)1227日、金谷原の田村村の禅寺醫王寺で、妻りゆ子からの差し入れ衣類をまとった龍五郎は、齋藤の息子源六の介錯で、遺族・立会人たちの前で切腹して果てた。源六は龍五郎の気迫に感無量となり剣を落として泣き崩れたが、龍五郎はこれをたしなめ励まして仇の首を落とさせた。享年37歳。辞世の歌、

     村雲の月はかくれて在りしかと 今日晴れて行く死出の山道

を残した。この時、中條潜藏のほか、山岡鉄太郎が立ち会っている。山田政一によると、服部一徳が書いた牧野原開墾の碑文の中で、龍五郎ら旧彰義隊士は粗暴で兵器を携え集合しているので、大久保一翁は大草高重を遣わして鎮めたとあることを紹介している。しかし山田政一は龍五郎の切腹の場面における服部の記述に龍五郎の凛とした振る舞いを讃えた一文があることを紹介し、龍五郎の人となりを改めて精査し、龍五郎は豪傑肌であり、また面倒見がよく、寄留先の人々から慕われていたと書いている。これに対応したように、静岡の農民からトラブル解決に尽力した大谷内らへの感謝状が彰義隊墓所に残っている。また、齋藤、上野両名の墓も龍五郎が建てたという。

 なお、服部一徳は、大谷内の切腹に立ち会った旧精鋭隊士で、その日の昼には齋藤・上野の加勢について、切腹に向かう大谷内を襲おうとしたが、中條に制止された。また粛清事件のいきさつについて、異論もある。粛清は大谷内の意思ではなく、大谷内は上野と面会し、彼らの生活の窮状を理解して許したという。しかし、藤田覚三が思い余って帰りの上野に仕掛け、吉澤力松が出会わせて加勢し、また出くわした齋藤も討たれた事件だったが、大谷内はすべてを自身の責任として収めたという。

 

 醫王寺   醫王寺に分骨された龍五郎の墓

 

 村上篤郎から興郷への書簡によると、龍五郎の跡目は明治4年(1871年)正月31日に倅の力(注 養子)に継がせることになり、開墾方附属を申し付けられた。また、粛清された上野の家名も相続され、龍五郎もさぞかし安心しただろうと記されている。

 二条勤番という肩書付きで大谷内はまた、故天野八郎の妻子が住居に困っている窮状を訴える天野八郎由緒という一文を明治2年(1869年)3月に残している。それによると、前に上申したように彰義隊元頭並の天野八郎の妻、老母、子どもが住宅に困っているので、紀州長屋への入居と扶助をお願いし許可してほしいというもので、駿河藩宛と思われる。天野の家族の救済には、獄中で天野の在所をうっかり漏らして天野捕縛のもとを作った彰義隊士の石川善一郎が、自分の不注意を償うために手を貸したとも言われる。なお、彰義隊墓所に残された複数の隊士名簿には天野八郎の肩書(出身藩名)に徳川の記載がある。八郎はもともと幕臣の家の出生ではなく、一時旗本の家に養子に入ったが程なく離縁となり、明治2年に生き残り隊士が駿河藩に訴えて身分の確認を受けた時には死去していたので、徳川藩士になる機会はなかったはずである。慶応4年に一時、江戸の治安を保つ役割を彰義隊が徳川藩から命じられたことを以てのことか、あるいは肩書を持たない天野八郎について、仲間意識が強かった小川椙太らが八郎の身分をこう書いたのか、今となってはわからない。

 椙太は現地での禄米受け取りを大谷内に託して、東京に出て、戦死者の墓を建立することに専念した。興郷は、「しるしを残したい」と言っていたと伝えられている。興郷の気持ちを表現した唯一の残された言葉である。この言葉は大義名分や精神論を重視する人にはいろいろに解釈できそうだが、灰燼に帰した寛永寺の境内が公園に変えられていくとき、主君慶喜への新政権による理不尽な仕打ちに対して異議を唱えて戦ったのがここだったことを後世に伝えたいという主張だったと考えるのが、後の興郷の墓守に徹した姿からは読み取れる。既に大谷内の生前から、小川らは東京へしばしば帰っていた。しかし、世は戊辰戦争関係の言論統制下にあった。ちなみにこの時代に販売された上野戦争を描いた複数の錦絵のタイトルは、「本能寺合戦之図」となっている。織田信長が明智光秀に討たれた事件の絵だとして上野戦争が扱われている。もちろんこれが上野の戦争画だという事は周知のことである。ちょうど、江戸時代に忠臣蔵の歌舞伎劇が、鎌倉時代の時代設定で、江戸幕府にたてつくものではないという了解で演じられていたのと同じである。また、錦絵や印刷物には、上野戦争の代わりに「東台大戦争図」などと記されているものもあるが、タイトルに彰義隊の名はない。

 

本能寺合戦之圖

 明治2年(1869年)になって、寛永寺が上野復帰を許された。この直前、寛永寺の範海大僧正から大総督府に、会津にいる輪王寺の宮を自分たちで連れ戻したいという嘆願書が提出され、大総督府はこの内容を誉め、許可する旨を、水田健吾を介して野見鍉次郎へ伝えさせた。これが実質的に、寛永寺が上野に復帰することを新政府が許可したいきさつであった。前述した小墓碑が造られた年である。その後、明治7年(1874年)になって明治維新の言論統制が解除され、上野戦争の詳細を記した原田道義(1874)の「山鵑一聲」前田夏繁・高畠藍泉(1874)の「東台戦記」などが出版された。この年の77日、寛永寺より彰義隊の墓建設の願いが東京府(新政府の出先機関)に出されたが、しばらく返事が得られなかった。9月になって、小川興郷、齋藤駿、百井求造の連名で墓の建設許可願いが出された。ほかの隊士や榊原健吉らからも墓を造りたいという願いが出されたが、東京府は興郷らに、寛永寺と協議して進めるようにという追願書により許可を与えた。彰義隊生存者のみならず、広く官軍関係者を含めて基金を集めたいという興郷の考えを寛永寺が支持して、建設を興郷らに委任した。明治8年(1875年)、旧山王台の火葬場跡に唐銅の立派な墓碑が建てられたが、まもなく借金のかたに持ち去られた。興郷は借財のために田畑を売り払ったと伝えられるが、借金証文は山のようにあった。この唐銅の墓碑を伝えるものとして当時の錦絵があるが、世に出回った部数は限られていたという。なお、2017年になって、寛永寺長臈浦井正明師により、この唐銅の墓碑の写真が発見された。

 

   

     彰義隊墓所建設許可願いと許可の追願書  


4.彰義隊士小川椙太(興郷)の履歴

 上野に彰義隊戦死の墓を建てた小川興郷は明治初期までの名を(すぎた)といった。江戸時代および明治時代の書付や戸籍、各種文書に記載された生年や年齢からの逆算によると、次の4通りがある。生年は天保8年(1837年)、9年、12年、14年で、上野戦争当時の年齢を考えると、それぞれ数えで35歳、33歳、32歳、28歳にあたる。明治22月(1869年)興郷33歳と記載の親類書に、13歳の長男を記載している。妻は1歳年上で、興郷20歳の時の子どもということになる。もし戦争当時28歳だとすると、16歳の時の子で、少々若い。明治時代に作成された戸籍には、天保8年(1837年)815日生まれ、明治28年(1895年)919日)死亡となっていて、年ごろからはこれを信じるのが妥当であろう。ただし、明治時代の寄留届等には最も若い14年を記載している。

 明治43年(1910年)に山崎有信によって著わされた彰義隊戦史によると、椙太は杉田弥十郎の長男で、家督を弟に譲って江戸に出たとあり、出身地の秩父村にある地名小川にちなみ、小川姓を名乗ったという。ただ、この人間関係を証する資料は定かではない。

椙太が江戸に出てきた事情を伝える当時の資料は三通ある。一つは一橋家からの召し抱え状で、「剣術心掛宜候ニ付・・・新規御抱入宛行四石壱人半扶持」住所は「武州高麗郡梅原村百姓国蔵厄介」とある。この時すでに、父親あるいは弟のもとから離れて、梅原村の国蔵という農民のもとに寄留していたらしい。二つ目は父弥十郎から北辰一刀流の剣士で講武所剣術師範役であった井上八郎への手紙で、「忰椙太儀桃井内に入り剣術修行罷り在り処、一橋殿へ剣術にて新規召抱に相成り直に床机廻り剣術方御奉公相勤め罷り在り候」とある。埼玉の名ある剣術家桃井春蔵のもとで剣術修行中という。なお小高旭之氏によると、ほかに内田周三の門人とも記されている。手紙の中では、不行届の者だがよろしくお引き立てを願うと贈り物をしている記述がある。「御家内様へも宜敷く」とあるので、井上とは旧知の関係のようだ。もう一通は江戸へ出るときの手配に関する依頼状で、途中の宿場での人足賃金の支払いをよろしくというものである。当時の在郷者が公務で移動するとき、沿道の役人や農民たちに宿場への人馬の提供を課す助郷の制度があったので、これに依ったと考えられる。文面では「高麗郡笠幡村より子八月六日出し中仙道板橋宿迄」となっている。ここで、子86日とこの年の干支が入っているので、椙太が江戸へ出てきたのは元治元年(1864)、中山道を通って板橋宿から江戸に入ったことがわかる。小高旭之氏が書いた幕末維新埼玉人物列伝によるとこの時、先に一橋家に仕官した澁澤篤太夫(栄一)が一橋家の家臣不足を補うための藩士募集に関東一円を巡回して椙太をスカウトしたという。

明治2年(1869年)2月の「由緒書・親類書・御届書」(徳川御用人届)に上野戦争前後の動向と家族親類の記載がある。これには宛名がないが、上野戦争以前と同様に家臣の列に加えてほしいという歎願書になっているので、宛先は駿河徳川藩であろう。それによると、徳川慶喜の水戸落ちを千住で見送った後、東叡山輪王寺の宮様の警護を仰せつかり、彰義隊士10名を束ねる組頭を命ぜられた。事件(上野戦争)後、自宅謹慎中に宮様が会津に到着したとの情報を得た。後を追おうと天野八郎ら残兵と連絡を取っているところで召し取られ、取り調べを受ける糾問局揚屋に謹慎、尋問を受けた後1122日に刑法官に引き渡され伝馬町揚屋の牢屋敷に謹慎となったが、明治2年(1869年)223日に赦免となったので、再び家臣の列に加えてほしいというものである。赦免は大赦と言われ、逮捕された彰義隊関係の大部分の者たちに適用された。牢での取り調べに一貫した隠し事のない供述をしていたので、赦免となったとも伝えられている。

 由緒書にはもう一通あって、同年同月の記載の横に「改」の文字があるので、書き直したものであろうか。そこでは、一橋徳川慶喜の家来になってからの身分と慶喜からの報償を細かく記載している。それによると、足高202人扶持、本国三河、生国武蔵、29歳で一橋家関係者宅に同居、第一次長州征伐の直後の元治元年(1864年)1124日、慶喜が京都に滞在した折りに、剣術の心得により足高共52人扶持で召し抱えられ、12月に脱藩兵が京都に迫ったため、江州(近江)へ慶喜出馬の折りに床几廻りの剣術方にお供をし、ご褒美に5両を下し置かれ、慶応元年(1865年)正月に床几廻り剣術方に組み入れられ、黄麻羽織を拝領、3月に床几廻り大砲隊になり、6月以来慶喜が大坂へ出向く度にお供し、白麻羽織を拝領した。慶応2年(1866年)3月、床几廻り銃隊になり、5月に剣術世話心得となり、7月の長州追討出陣にお供となったが延期になり、8月に慶喜徳川宗家相続にともない、元の禄高で召し抱えられ、檄兵勤方を仰せつけられた。慶応3年(1867年)3月、檄兵肝煎を申し渡された。前述の由緒書の改訂版とすれば、慶喜にかかわってこれだけの業績があったと徳川藩へのアピールを綴ったとも読める内容である。剣術世話人心得助という椙太あての申渡(辞令)が残っている。

なお、このころの幕府・将軍関係の組織再編では、慶応21228日に幕府御徒組が銃隊に改組、この同時期に将軍警護の諸隊も銃隊に組み込まれた。当時慶喜は京都で執務中であった。

 家族関係の記載は、祖父は元松平大和守家来小川藤吉郎(死去)、父は小川弥十郎で椙太は次男、また椙太は高202人扶持、元高4石壱人半扶持、足高壱人半扶持、上州前橋生まれの33歳とある。なお、明治になってつくられた戸籍では、興郷は弥十郎の長男と記載されている。彰義隊戦史は、こちらの記述を採用したのかも知れない。彰義隊戦史では父は杉田弥十郎となっているが、家族書では小川弥十郎、後述のように(すぎた)は祖母方の姓になっている。

 妻は酒井左衛門尉家来の前田清助の娘で34歳、惣領國太郎13歳、次男菊三郎6歳の記載がある。なお、そのあとに続く文面に、12月付で、弟久四郎18歳(前橋在住)、妹濱17歳(東京中屋敷)、妹熊(あるいは悠)15歳(東京中屋敷)と記載されている。

 「改」の記載がある資料では、前書同様、祖父は元松平大和守家来の記載がある。祖母は元松平大和守家来杦田久右衛門の娘(死去)、父の小川弥十郎は元松平大和守浪人、母は松平下総守家来小澤春次の姉(死去)、妻は酒井左衛門尉家来大砲組前田清助の娘、倅国三郎13歳、次男菊三郎6歳、父方親族として、兄小川市次郎(弥十郎惣領、松平大和守家来)、姉(松平大和守家来役人見習 飯田彦太郎姉と記載があるが、姉は妻の誤記か?)、母方親族として、叔父小澤春次(母の弟、松平下総守家来)の記載がある。なお、もう1名叔父の記載があるが名前はなく、父の妹、岩田権兵衛妻・死去と記載されている。ここでは叔父ではなく叔母の誤記があったようだ。なおこれ以降、妻子にかかわる記録はない。

 これらによれば、椙太は妻子をかかえた浪人暮らしから、一橋家に仕官するため江戸に出たのだろう。小川家の現存するもっとも古い戸籍(除籍謄本)は明治29年(1895年)作成のもので、戸主小川興郷が明治5年(1871年)に弥十郎から長男として相続と書いてある。家督は弟(あるいは兄か?)に相続されなかったのだろうか。あるいは弟(あるいは兄か?)は分家したのだろうか。また、明治11年(1878年)にりてが入籍している。この時までに興郷は妻子と離縁になったことになる。なお、現在の小川家の親類に杉田姓があるのは、祖母の系譜(杦田)なのかもしれない。また、由緒書に記載があるように、もともと三河武士の系譜で、譜代松平家の家臣だった可能性がある。

 なお、松平大和守は幕末に川越藩主を経て、前橋藩主に移動した。このとき、旧藩領地の一部を前橋藩領地に組み入れている。上野(こうずけ)と武蔵の國境が藩の境と一致していないので、興郷らの出身地が特定しにくい。

 



        小川興郷
 

上野の彰義隊墓所には、小川家由緒書らしいメモの紙がもう1枚残っていた。それによれば、小川椙太の祖父は元松平大和の守家老小河原監物、祖母は小川郷士小川久四郎娘、父は家老小川原監物、母は御旗本小川家養子で父と同姓同名の小川原監物の実娘となっている。小川椙太は惣領、姉妹2人、弟1人があり、養父は武州郷士千石小川弥十郎と記してある。幕末維新埼玉人物列伝に載っている小川椙太の履歴は、この資料からの部分孫引きと思われる。なお、幕末維新埼玉人物列伝には小川椙太は気性が荒く庶民には傲慢な態度でいたが、明治になって上野に墓所を建ててからは温厚になり、かつて迷惑をかけた静岡の農民に謝罪状を送ったと記述されている(この項、根拠不明)。一方、静岡の農民のトラブルを大谷内や小川ら旧彰義隊士が収めたことに対し、地元民からの礼状が残っている

2020.07.04

 


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