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上野彰義隊のページ

目次

・お知らせ
上野彰義隊墓所の沿革
彰義隊墓所資料室のバーチャル展示
上野彰義隊資料室さよなら展示
問い合わせ先
過去のお知らせ
2011.3.11の被害



お知らせ

 2018年の追善供養法要
 毎年5月15日(旧暦)の上野戦争当日(現在では新暦)を命日にして行われています上野彰義隊戦死者追善供養法要は、2018年は151回忌として行われます。

 2018年5月15日(火)午後1時より 上野公園内上野彰義隊墓所にて
 執行:日蓮宗北部宗務所 雨天実施


2017年の追善供養法要
 毎年5月15日の命日に行われていますが、2017年は明治150年に当たりますので、法要と演舞が11時より上野公園にある彰義隊墓所で行われます。主催のお寺さん(日蓮宗北部宗務所)では、日蓮宗宗務総長小林順光僧正が大導師をつとめ、徳川宗家の恒孝さんも50年ぶりに焼香にみえるそうです。この日は、寛永寺、増上寺、本門寺、護国寺、瑞輪寺など都心のゆかりの寺が、11時に一斉に鐘を撞くことになりました。
 なお、舞台設置のため、14日に墓前の一部の出入りに不自由をかけることになります。

 当日は法要と清宴、川柳句会が予定されていますが、詳細は主催のお寺さん(事務局:龍泉寺TEL. 03−3821−4601)まで問い合わせてください。

お寺さんのチラシはこちら ⇒  P1 P2 P3 P4

 終了しました

 当日は暑くなく寒くなく、雨の心配もない日和に恵まれ、式場には彰義隊子孫・縁故者、来賓、お寺さん関係者が50名以上、それに一般見学者約200名が上野彰義隊墓所を囲んで、50年に一度の大法要を見守りました。

第4回上野しのばず学習会 彰義隊と墓所の明治150年
 明治150年の今年、上野公園の歴史の一つとして、旧上野彰義隊墓所事務局の小川潔(隊士・小川興郷子孫)が、彰義隊墓所に遺された文書や文献、言い伝えをもとに、上野戦争後の彰義隊の動向と墓所の150年についてお話をします。

2017年5月27日(土)午後2時〜4時 「谷中の家」にて
 詳しくは、別記案内・地図をご覧ください。

終了しました



上野彰義隊墓所の沿革
 上野戦争(1868年:慶応戊辰4年閏5月15日)の翌日には、東征軍側の遺体は片付けられたが、彰義隊士の遺体は野ざらしにされた。隊士の妻木城花野は、勝海舟にその悲惨さを訴えた。のちに三の輪(南千住)円通寺の住職仏佛磨からの供養の申請が許可になり、上野山王神社跡(現上野彰義隊墓所)の穴に隊士の遺体が集められ、火葬にされた。遺骨の一部は円通寺に移され墓が建てられた。

 遺体を埋めた上野には明治2年、密かに、寛永寺の子院である寒松院と護国院の住職によって墓碑が埋められた。上野戦争生き残り隊士の小川興郷は、1869年に牢から釈放になり、主君である徳川氏を慕って静岡に向かったが、生き残り隊士の面倒を徳川氏がみることになったのを機に東京へ戻り、上野に彰義隊戦死者の墓をつくることに奔走した。

 1874年(明治7)、上野戦争生き残り隊士の小川興郷、桃井求造、斎藤駿が連名で墓所建立願いを政府(窓口は東京府)に提出。同時に他の隊士および寛永寺からも同様の願いが出され、3者協議のうえ進めるようにとの許可が出された。寛永寺は寺そのものの復旧に専念し、小川ら3名が墓所建設に取り掛かった。他の2名が東京を離れたので、実質的に小川ひとりで以後経営にあたることになった。小川は旧幕臣はじめ広く募金を呼び掛けたが資金は集まらず、墓所建設に私財を投じた、


 1875年(明治8)年、唐銅の塔の形をした墓が完成。しかし借金のかたに、墓はまもなくもっていかれた。窮状を見かねた白山大乗寺の住職・鶏々日瞬の援助により、墓所は1884年(明治17)に再建された。現存する大墓石はこの時のもので、小川と親交が篤かった山岡鉄舟の筆になる。また、その前に置かれた小墓石は、上野戦争直後につくられた寒松院と護国院の住職によるもので、裏に、以下の詩歌が刻まれている。

昔時布金地 今日草茫々 誰笑千年後 却憐古戦場

 あはれとて尋ぬる人もなきたまの

      あとをし忍ぶ岡の邊の塚


 小川興郷は墓所の経営に専念するため、新政府への仕官を断り、剣道道場の経営等で暮らしをたてた。1895年、興郷が胃病で亡くなり、妻りてと娘しかが墓所の維持にあたった。しかは独身のまま死去したので、りては姪のミツを養女に迎え、墓守の教育を徹底した。ミツの夫真平は1974年に死亡、ミツも1979年に死去、息子たちがあとを引き継いだ。

 上野彰義隊墓所は、上野戦争生き残り隊士の小川興郷等により建設され、興郷と妻りて、娘しか、養女ミツとその夫真平、息子彰とその妻みさ子、彰の弟たちによって代々守られてきたが、2003年11月に彰の病気・転居に伴い、小川家から東京都に移管された。

 彰は1981年、自宅の一部に上野彰義隊資料室を設け、隊士の遺品や墓所建立の資料等を展示していた。資料室に展示されていた史資料のほとんどは、2003年に台東区教育委員会に寄贈された。一部の名簿等資料、小川興郷の遺品、関連出版物は、末弟である潔が保管している。


なお、上野彰義隊墓所は上野公園にもとのまま存続しています。どうぞお訪ねください。

2016年の慰霊祭は、お寺さんの都合で5月13日(金)午後1時より墓前で行われる予定です。



彰義隊墓所資料室のバーチャル展示
 
上野彰義隊墓所の管理棟と上野彰義隊資料室は2003年に閉鎖となりました。そこで、バーチャル展示室を残そうと準備しています。以下は暫定版です。写真は震災前。
  

上野彰義隊資料室さよなら展示
以下に、2003年5月に行なわれた上野彰義隊資料室「さよなら展示」の解説パンフレットを掲載し、バ−チャル資料室野一部としたい。
この「さよなら展示」は、「台東区観光ボランティア」および「しのばず自然観察会」の有志の協力で実現した。また、転居準備にいそがしい小川彰氏には、資料室をわざわざ開けていただいた。謝意を表わしたい。
 
解説



出来事順に時代を追って(展示の順と多少異なります)


上野彰義隊墓所創設者 小川興郷
上野彰義隊資料室

○囲みの数字は、当日の展示物の脇の番号と対応しています。


@徳川幕府の浪士集めの手配書(文久三年)

 1863年(文久3)というから戊辰戦争の始まる4年前、幕府は自ら決めた士農工商の身分を事実上破棄して浪士・郷士を集めた武力集団をつくろうとした。全国から腕がたって心の立派なものを集めようという書状がこれで、その末端の役人が山岡鉄太郎(鉄舟)であった。

 書状は山岡鉄舟が浪士集め担当の池田徳太郎にあてたもので、「非常時にあたり公正無二、身体強肩、気力壮厳の有志の者を、貴賎老少にかかわらず召し、分に応じて取り立てるべく、近国より募るように」という主旨がしるされている。

 この書状は写しだが、本物は行方不明だそうだ。なぜ写しかというと本物は花押があるはずで、これはあるべきところに丸がついている、今ならコピーを撮っておくところだが、これは当時の約束ごと。

 そこで集められた者たちが京都へ行き、のちにそのなかの京都守護職松平容保(会津藩主)の庇護のもとに再組織したのが新選組というわけである。


A彰義隊申し渡し書

 彰義隊はもともと徳川慶喜の窮状を傍観できぬと、旧一橋藩関係者を中心に集まって尊王恭順有志会と称した内輪の集団だった。その後人数を増し、慶喜守護を名目に上野の山に屯集していたのを、江戸城を預かる松平斉民が彰義隊の懐柔をかねて、1868年(慶應4)の4月に幕府公認として江戸市中の警備にあたらせた。これはその申し渡し書、当墓所を長く守っていた故小川ミツ氏は任命書だと言っていた。ともかくこれで、彰義隊は私兵ではなく、幕府の軍となった。羽振りが良くなった隊士たちに、「色に持つなら彰義隊」という言葉も生まれた。


 隊長は奥右筆(幕府の書記官)だった澁澤成一郎。彼は深谷の人で豪農、渋沢栄一の従弟にあたる。奥右筆というから、格式があったようだ。

墓所を建てた小川椙太(のちの興郷)の禄は薄給で、石高玄米四石四人扶持と書いてある。


B彰義隊士名簿

 彰義隊士の名簿は3種類くらいある。上野戦争直前のものによると小川椙太は応接方で徳川とある。

もうひとつは戦争後、生き残った小川椙太が作った隊士と戦死者の名簿である。これらの名簿は隊の組織構成や人名に異なる点がとても多い、隊の組み替えや人の出入りが多かったのだろう。彰義隊の数は最終的に二千とも三千ともいわれているが、これらの名簿では戦争前のもので525名、小川作成のもので380名の記載しかない。また、戦死した隊士のうち氏名の記録がある者は205名のみである。

山崎有信氏が1910年(明治42)に刊行した彰義隊記録の決定版と言われる「彰義隊戦史」には、これらの名簿から再構成した隊士名簿(組織図)と小川の名簿が載せてある。


C花野さんの手紙

 上野戦争は5月15日、二万八千の兵力と近代的アームストロング砲を持つ新政府軍に対して、迎え撃った彰義隊は二千人程度だったたから、勝敗は始めからわかっていたようなものであった。それでも彰義隊は半日を互角に戦ったといわれている。しかし、結局は夕刻には決着がついてしまった。

 次の日に新政府軍の死体はみな片付けられたが、彰義隊のほうはそのまま放ったらかし。1868年(慶應4)は旧暦の閏年で、戦争当日は今の暦では6月の梅雨の最中となる。見せしめのために放置された遺体は傷みがはげしくなる。この隊士の遺体をどうか片付けて弔わせて欲しいと勝海舟に願い出た手紙がこれである。隊士の夫人である木城花野さんの書いたもので、本物である。

 とにかくこうした願い出があってから箕輪(三ノ輪)円通寺の大禅仏磨和尚が許可を得て、上野山内の山王台(現在の彰義隊墓所)で遺体を焼き、骨を寺に持ち帰った。現在、彰義隊の墓は上野と円通寺の2箇所、隊士の墓は御徒町のNTTビル屋上をはじめ各所にある。


D錦絵など

松迺落ち葉(別名「東台戦記」)の写しが、なぜかここには一頁しかない。これが上野戦争の直前と直後の話。戦争当日に関する資料は少ない。

「東台戦争図」などの錦絵は数点あるが、どれもきちんと彰義隊のユニホームを着ているのであとで描いたものだと思われる。資料室の外に展示している白黒の絵は、生き残り隊士であり墓所を開いた小川椙太(興郷)が口述して描いてもらったもので、一番事実に近いと思われる。浅黄の着物といった隊士の制服も、実はそれほど揃っていたはずはなく、かなりいい加減な服装をしている。

 上野戦争後、最初にでた文書を見ると、彰義隊の死亡者の数は書いてあるが、新政府軍方はない、負傷者が数名あるだけである。彰義隊が二百名以上死んでいるのに、相手に一人も死亡者がないというのは妙な話である。勝者と敗者の死者は一対十くらいが普通だとか。

 新政府軍は自分の側の犠牲者だけをさっさと引揚げにきて運んだという。藩ごとに報告をさせているが、藩も名誉にかかわるからあえて報告しなかったのかも知れない。

やっと言論統制が解除された明治7、8年になって書かれた「江城日誌」では、新政府軍の死者は41名になっている。これはのちに参加各藩から新政権へ届けた表向きの数字である。


E蝦夷函館戦争

 上野で生き残った彰義隊士はその後、東北方面へ落ちた者、榎本武楊らと函館戦争に加わった者もあった。「小彰義隊」と称して、戊辰戦争最後の砦、函館五稜郭に合流した。明治2年の函館戦争を記録した「蝦夷地疾風義勇録」には、榎本釜次郎(武揚)や土方歳三の名前も見られる。彰義隊墓所に残っている名簿類や「慶應戊辰戦況記録」(著者・年代不詳)ではいずれも、鳥羽伏見から函館まで、あしかけ3年続いた戊辰戦争をひとつの戦争として見ているのが特徴である。また、外国人の名前がカタカナで記されている。


F獄中寄せ書き

 上野戦争に直接関係あるもので、資料というより見て面白いのがこの寄せ書きである。

 敗残隊士のなかには、江戸市中に隠れて再起を伺っていた者もいて、この隊士たちが新政府軍に逮捕されて小伝馬町の牢に入れられた。

 その獄中で隊士が書いた寄せ書き帖には、書や漢詩、墨絵、水彩画など36点が納められている。

 彩色してある絵もあり、字がとても立派である。墨だけでなく絵の具も牢のなかにあったということになる。裕福な者はそれほどいなかったはずだが、教養人としての武士の一面をうかがわせてくれる。町人で彰義隊士になった人もあったが、牢に入れられたのはかなり上の人だったのだろう。

 「壮膽如斗」の寄せ書きは頭取並(副隊長)の天野八郎で筆である。亀の絵は仙台藩出身の伊藤文佐エ門という人のもの。20年ほど前に遺族が墓所に訪ねて来られた。仙台藩家老坂英力、というのもある。身分もあって国事犯だから扱いはよかったのかも知れない。

 これだけの画文帳を一冊作れたのだから、牢内でも隊士たちは会える状態にあったのだろう。隊士たちは戦争から半年後の秋に赦免となったが、天野八郎はその日を待たずに獄死した。





G集會人銘志簿


1868年(明治元)秋の赦令で牢から出てきても、彰義隊士はほかの幕府軍と違って幕臣として認められず食えなかったので、旧親分である徳川藩に掛け合うため、隊士と家族たち総勢96名が静岡に移った。しかし静岡での困窮生活で、隊士の粗暴なふるまいが表面化した。そこで隊の代表者である大谷内龍五郎らが隊士の規律の建直しと再結束をはかった。そのときの連判状が、「集會人銘志簿」で、「明治二年七月」の日付がある。しかし、徳川氏も明治維新になって800万石の将軍家から70万石の田舎藩主に減封されて、とても旧幕臣が頼ってやってきても財力はなく、困惑した。


H志願之表

隊士とその家族の生活をどうにかしてくれというので作った訴状が「志願之表」である。代表者として大谷内龍五郎や小川興郷を中心とした5名の署名がある。1869年(明治2)10月に静岡藩(徳川氏)に提出した。

 後日、牧野原台地の開墾をするなら給料を払うということになった。つまり茶畑に開墾するのを条件に隊士たちは徳川藩士として認定されたのだが、大谷内龍五郎だけは牧野原入殖を前に切腹している。狼藉した隊士を粛清した責任を取ったわけである。龍五郎や山岡鉄舟の努力も大きいが、隠居していた慶喜がずいぶん裏で手を回して彰義隊を助けようとしてくれた、と言い伝えられている。

 そんないきさつから、小川家は本籍を静岡に置いてきた。柿田川湧水のほとりにある閑静な寺域である。三島の駅前で土地の人に話を聞いたら、駅の近くあたりにも徳川家の家臣の屋敷があったけれど、今は一軒もないということであった。


I隊士の身分書

隊士の履歴書ともいうべき身分書が68名分残っている。明治2年に大赦を受けた小川椙太が、あとから集めたものが多いのだろう。獄死した天野八郎については少ないのに、自分の分はとても詳しい。

隊士の年齢は19歳から46歳に及んでいるが、ほとんどが20歳台、30歳台である。小川椙太は34歳とあるが、明治になってからの戸籍から計算すると、小川は戦争当時30歳となり、食い違いが見られる。明治2年までの記述があるので、2歳加えても32歳となる。


J彰義隊墓所建立願い書

 1874年(明治7)に小川、斎藤、百井というの3人の元隊士が東京府に墓所建立の願い書を出した。この年に言論統制がなくなっている。同じような願い書を寛永寺も出しているので、政府は両者で協議してよきに計らえとした。しかし寛永寺は、上野山内に復帰した直後で寺の組織を建て直すのに精一杯で何もできなかった。

 静岡から東京に戻り、墓を作る運動を本格的に始めた小川は、はじめは徳川幕府の関係者に広く募金を呼び掛けるつもりだったようだが、結局は近くに住んだ小川を中心にした隊士たちが工面した資金で、1875年(明治8)に墓を建立した。その場所がここ、激戦地であり遺体を焼いた所である上野山王台である。この時建てた唐金の立派な墓は結局、残りの代金が払えなくてまもなく借金のかたに持ち去られてしまった。

共同設立者が地方へ転出し、墓所の維持が小川ひとりの肩にかかってしまった。その頃、白山大乗寺の住職(のちに池上本門寺貫主の鶏溪日舜)が墓所の窮状を見かねて経済援助を申し出てくれた。

 そんなわけで今ここにある墓は二代目で、1884年(明治17)に再建されたものである。「戦死之墓」の文字は谷中全生庵に身を寄せていた山岡鉄舟の筆による。「彰義隊戦死之墓」とある小さな墓石には松国という施主名が刻まれている。これは供養した寒松院と護国院(ともに寛永寺の子院)の住職が世をはばかって寺の一字を取って匿名にしたものである。墓石の入札書や、見積り書、多数の借金証文などの文書が残っている。



おわりに

 彰義隊墓所は都有地である上野公園の中にあり、今の都市公園法では宗教物や私物があってはならず、小川の家と墓所は立退きを催促されたこともあった。その後東京都は、墓という宗教の対象としてはまずいので、上野戦争の遺跡という位置づけで彰義隊墓所の存続を認めるという粋な計らいをした。そして20年余、ずっと守ってきた小川彰氏は高齢となり病も得て引っ越しを決めた。都の財政事情では資料室を引き取ってもらうこともできず、墓所とともに資料室も閉鎖することになった。しかし墓と碑文はそのままの姿で当地に残ることになっている。

 振り返ってみれば、この彰義隊墓所はやはり記念物ではなく、墓をよすがとして人が行き交い出会う場であった。地方から出てきて就職に失敗し、ここで空腹に倒れた人や、自殺しようと上野に来て、ここで思いとどまった人もいた。彼らはここから社会に戻っていった。そして戦後130年余になってもなお、先祖が彰義隊だったというルーツに導かれて新たな人がここを訪ねて来る。そのときに資料の一つ、話を聞く人の一人もいないのはいかにも寂しい。本来公園というのは、そうした交流を生む場所ではないのかと考えるのだが。
(小川 潔)


本原稿は、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」に掲載した原稿を、発行元である谷根千工房のご好意で、一部書き直して使わせていただいた。同雑誌には資料の写真も併載される予定なので、ぜひご覧いただきたい。
問い合わせ先 谷根千工房 電話・FAX 03−3822−7623


上野彰義隊関係の問い合わせは
〒110-0001 台東区谷中3−1−9 小川 潔 まで、手紙でお送りください。
ただ、彰義隊子孫で上野の墓所の墓守もしたことがあるだけで、歴史の専門家ではないので、すぐに返事ができないことがあります。気長にお待ちください。


過去のお知らせ
 しのばず自然観察会代表の小川潔が、2012年9月29日に江戸東京博物館友の会セミナーで、「彰義隊の墓守の子が見た上野戦争と上野公園」というタイトルで話をしました。

2011.3.11の被害
2011年3月11日の東日本大震災で、上野彰義隊墓所の墓石と灯篭に被害がありました。 明治150年の2017年4月-5月に修理し、150回忌の5月15日に間に合いました。
 上野彰義隊墓所の被害ですが、大墓石(山岡鉄舟の筆になる「戦死の墓」が刻まれている墓石)の一番上の宝珠の丸い部分が落ちました。また、墓石がある高台部分を正面から見て向かって右側の燈籠の上半分が落下し火袋が破損しました。また、墓石高台下の大燈籠の火袋が本体からずれて、少し斜めを向きました。落下破損した部分は、東京都上野公園管理所で保管中です。墓所は東京都の管理物件になりましたが、一部が台東区の文化財に登載されていることもあり、このほど修理を小川の手で行うことになりました。予定では大墓石の宝珠と向かって左側の燈籠の宝珠(震災前から落下)を元に戻すことと、向かって右側の燈籠の火袋を新造し落下した笠・宝珠を元に戻す事になります。

〔写真〕震災後の墓碑類。大墓石の横、向かって右側の小灯篭の火袋から上が落下しました。


墓石と燈籠の修理
大墓石の宝珠と向って左側の小燈籠の宝珠を元の位置に接着復元し、向って右側の小燈籠の火箱を破損したものと同じデザインで造り、笠と宝珠を乗せて復元しました。
 
 大墓石の宝珠(頭の飾り)が落下。  上野公園管理所で保管されている墓石等の破損部。



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